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| 主人も私も浅草生まれ浅草育ち、今は目白に住んでいる。安部総理の「美しい日本」とは、具体的にどのような日本を描いているのか伺ってみたい。 |
| 私は小学校の低学年で、戦争を体験している小学校に登校する時、血液型の名札を付けて、六年生が人数の確認し前後に付いて集団登校した。 |
| 今の六年生に比べると比較できない程、大人だったと思う。登校中空襲警報のサイレンが鳴り響き戦闘機が低空飛行でビュービューと音をたてて此方に迫り次にはバリ、バリ、バリと子供達に向けて機銃掃射が襲う、主人の家も私の家も昭和20年(1945年)3月10日にB29が一説によればガソリンをまいて焼夷弾を落とし全焼した。 |
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私は3月1日頃だったと思うが疎開して、かろうじて難を逃れることができた。
敗戦を迎え、家の生活も戦前と戦後ではでは天と地程変わってしまい悲しい思いをした。
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| 多くの友人、知人、近所の人達や多くの人達が燃える火をのがれ、水を求めて逃げ惑い、それを火が追うように浅草側から向島の方に火が川面をなめるように燃え逃げる人達が力尽き黒こげにくすぶった死体がゴロゴロころがって、凄まじい有様だった事を父から聞かされた。 |
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父はその中を生き延びて顔がすすだらけで焼き焦げた座布団を一枚持っただけで疎開先に何日も掛けて辿り着いた、父の姿が今でも目に焼き付いている私は今でも飛行機が低空で飛ぶ音を聞くと耳をふさぎたくなる。
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| そして兄も戦死し遺骨も無く一枚の紙の死亡通知だけだった、母は身を切られるほどか悲しかったと思う、私の母だけでは無く、その時代の人達は皆同じ思いをした人達が一杯いたと思う。 |
| 主人の姉二人と兄一人が3月10日の東京大空襲で死んでしまい骨さえも無い、その事を思うとき毎日自殺や人殺しなど嫌なニュースで聞くに堪えない事ばかりの昨今人情も薄れ人の事を思いやる心も無くなり日本人の美徳の恥じらいや慎ましさも無くなり、何でこんな日本になってしまったのかと悲しい思いがする。 |
| 世界中の人達から日本に生れたかつたと、思える日本になっていれば大勢の犠牲になった人達の霊も浮かばれると思うが、こんな日本になったのは大勢の霊が嘆いているせいだろうかと思うときも有る。 |
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戦争に負けた事で大切な文化や躾、教育、日本人の誇りもすべて自信を無くしてしまい戦前の事はすべて悪いと思ってしまったのではないか、戦後生まれの総理の「美しい日本」とは是非伺いたいと思うのは私だけだろうか次回から私の時代の色々な事を思うままに載せてみようと思う。
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村田 和子
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